日暮里と書いて「にっぽり」と読む。珍しい読み方の地名で、予備知識が無いと読めないかもしれません。室町時代の文安5年(1448)の「熊野神領豊嶋年貢目録」に「につぽり妙円」と書かれているので室町時代には「にっぽり」と呼ばれていたことがわかります。永禄2年(1559)の「北条家所領役帳」には「新堀」という字が当てられてます。「新編武蔵風土記稿」北条家の家臣、遠山弥九朗の屋敷があって新しく土塁を築き塀を巡らせたので新堀となったと書かれています。もともと「にっぽり」という地名があったものに「新堀」の字をあてたのでしょうか?
新しく掘り起こした開墾地『武蔵国志』、谷中の西北を新堀と称し、これは太田道灌の出城跡である『紫の一本』、太田道灌の家臣・新堀玄蕃が砦を築いた『江戸名所図会、太田道灌が堀を掘った。そのとき掘り出した土を盛ったのが道灌山、アイヌ語説もあったり諸説あって由来はわかりませんが中世にはにっぽりという地名はあったようです。
江戸時代の日暮里は江戸庶民が日帰りで訪れることのできる観光地でした。花見寺、雪見寺、月見寺・・・景勝地で風景に見惚れるぐらいで一日中過ごしても飽きないということから日暮(ひぐらし)の里と呼ばれ、1749年(寛延2年)には新堀に日暮里の字が当てられて、その後、「日暮里」が正式名称になりました。日暮というと日没をイメージして、よいイメージを抱かない人もいらっしゃるようですが風流で優雅な由来を持っています
いまの日暮里地域は明治22年に日暮里村、谷中本村、金杉村が合併して日暮里村となったもの。昔の日暮里村の範囲は諏方神社のある高台から西日暮里駅北東部にかけて。日暮里駅から西日暮里駅にかけての低地は谷中本村、現在の東日暮里はほぼ金杉村でした。3つの村が合併して日暮里村、後に日暮里町になりました。日暮里の地名の由来は諸説あってわからないのですが、もともとは新堀と書いていたものを景色の美しい場所だったので日暮里と書くようになったことはお判りいただけたと思います