三河島について。今は荒川区荒川になっているのが旧三河島。日暮里も南千住も尾久もいくつかの村が合併して今の形になってますが、三河島は昔の三河島村の範囲で単独です。明治の大合併で町屋を併合したことがありましたが、その後、町屋が独立し、昭和37年の住居表示法の施行で町域を削られ現在に形になっています
三河島というと三河島駅周辺を言うことが多いのですが、三河島の一番端で東日暮里、西日暮里との境界。しかし昔は線路の反対側の東日暮里の一部や尾竹橋通りの向こう側の西日暮里一部も三河島でした。
町屋駅の周辺、今は住居表示で町屋になってますが、一本松のあたりまで三河島でした。三河島駅から町屋、三ノ輪方面まで範囲が広い三河島。地名の由来は3つの川に挟まれて島のようだったから付いたという地形説、太田道灌とも知り合いであった木戸三河守という武士の名前から付いた人名説、徳川家康が三河から連れてきた家臣が住んでからという説がありますが、中世から三河島の名前があるので地形説が妥当ではないかと思います
三河島が荒川になったというのは三河島事故という大惨事があったこと、不良住宅が多くイメージが悪化したことなどがとかく言われますが、荒川区の中央に位置し、区役所、警察署、郵便局、保健所・・・など荒川区の官公署が集まる地域なので荒川と呼ばれるようになったとも言います
年配者には「三河島」というと良くないイメージを固定観念で持ってる人もいますが、私は「三河島」という地名を誇りに思い語り継いでいきたいと思います。なのでイベントや発信する情報には三河島という言葉を使っていきます